2014年2月4日火曜日

豊かさについて

友人の結婚式二次会参加につき、今回は髪の毛を自分で小綺麗にしていこうと考えた。不器用な人間には髪飾りが必須だと思い、会社の帰り、丸の内の店に寄って見た。

NYから発信されているらしいそのショップで、定員さんに勧められていいと思った大振りのワイヤーでできた花がついた飾りは、16,000円した。

髪飾りにここまで奮発しなくても、さがせばより良いものがあると思って店を後にした。

次に、ビームスで最近流行りの大振りのビジューが花形にあしらわれた短いネックレスを見つけた。とても可愛い!もしや髪飾りよりも、アクセサリーを派手にして、こちらに投資する方が正しいのではないか!

ネックレスはフェイクのビジューだったが、お値段53,000円。

母親の似合わなくなったネックレスを借りる方が方がわざわざ流行に乗ったフェイクを買うよりいいかも。ビームスを後にした。

もはや髪飾りなのか、アクセサリーなのか、買うべきものがわからなくなってきた。

いつしか、必要なものを買うというよりは消費したい気分がさめやらなくなり、気になっていたセレクトショップに入る。

一目で気に入った、やはり大振りのネックレス。細めで燻しのきいたゴールドのチェーンと、湾曲した同じゴールドのプレートに細かいきらきらのフェイクビジュー。

母親のお下がりのアクセ、実は着ようと思ってたワンピースにはイマイチと思ってたんだよね。やっぱり新しいのほしい!そうだ、これをつけて、髪の毛はヘアアクセを外に出さず夜会巻きみたいにすればいいじゃん!絶対それがいい!

値段のタグがない。ゴシップガール風のスタイルの良い店員さんが、商品のファイルをパラパラとめくって調べてくれる。

「73,000円です。パーティにも映えて、とてもよいお品物です。」

わたしは店を後にした。
もちろん、値段にびっくりしないふりで微笑みを浮かべながら試しにネックレスをつけてもらって、ついでに店もゆったりとした足取りで一周回ってだ。

25歳の私には、適正な賃金が与えられており、夢のお財布はない。

私のボーイフレンドは、愛を与えてくれるがルブタンのお靴やプラダのお鞄を日常的に買い与えてくれるようなセクシーでゴージャスなガイでもない。

25歳の私は、とても現実的で平々凡々、世の中の大部分の女性同様、たまのふんぱつ、原則としては足のついた生活をおくれと神様が囁いている。
豊かさってなんだろう。なんでも金の心配なく買えて、満足に満足を重ねられることではないか。お金持ちならそれができる。ヘアアクセも流行のネックレスも全てお買い上げしたい。

とはいえ、その豊かさを体現するお金持ちって年収一千万ぽっち(!)じゃなれない。税金でがっぽり差っ引かれてもなおバーキンが買えてマセラティとかに乗れてトランプタワーに住めなきゃ。

でもまてよ、消費者行動や心理学は勉強したことないけど、ここまで消費やそれを経た豊かさが注目されるようになったのって、人類が生まれてからほんとに最近のことだし、産業が革命されて物が溢れてからじゃないの。
豊かさってなんだ?

結婚式まで時間がない。渋谷でよったいつものアクセサリーなんでも屋さんで、525円の実用的でシンプルなヘアコームを見つけた。最初に行ったヘアアクセショップと、形は同じ。コームのとめ方は、丸の内で懇切丁寧に教わった。ビジューもついてない分、取扱いやすい。これならやれそう。いつもおざなりな髪の毛を丁寧にとかして綺麗にして、チャレンジしてみよう。

525円分の消費に満足と幸せを覚えて、今日は家路に着く。

まだムスメッ子なわたしには、それでもお金をたくさん使えることが豊かではないかという情念が燻っている。でも、それを越えて自らの豊かさを掴み取らねばならんこともなんとなく知っている。道のりはまだ長い。

2014年1月22日水曜日

人生は単位制か?

尊敬する先輩の一人が、いま人生の単位論に凝っている。

人間は全て決められた数の単位を取ることになっていて、それぞれみずからにまだ足りない単位を取得しながら人生を生きているというのがその人が語った説である。

たとえば、仕事では苦労したことなく高給とりである人が結婚生活がなかなか上手く行かないとか、

裕福に育ち不自由のない結婚をしたもの同士の間に難しい病をもつ子供が生まれたりすることが例にあげられるという。

多少例が偏りを見せているが、
つまり、人間万事塞翁が馬に似た考えで、人生に起こる事象はプラスとマイナスを補い合って、みな決められた単位を取得のち人生を卒業するというのだ。

さて、人生の帰路にたつと、色々なことを考える。その中に他の選択、選ばなかった道、諦めた道がある。誰かが進んでキラキラし始めた未来も良く目に入る。

悲しいかな、選択肢の全ては手に入らないし、自分には他の人となにか圧倒的に劣ったところがあるようにも見える。毎日これでよかったと嬉しくなったり、やっぱりだめだと悲しくなったりを繰り返して少し疲れる。

単位制とはすこし異なるかもしれないが、最近密かに、最後は人生に起こったことをおもしろがったもん勝ちだと思うようになった。ちなみにおもしろがるとは、面白おかしくやりすごすという意味では必ずしもない。もしかしたら古文のもののあはれ、とか、をかし、にちかいかも。

涙が自然に出るくらい嬉しいことも、信じられないことも、腹立たしいことも、身を切るように悲しいことも起きる。
それら一つ一つを丁寧に受け止めて咀嚼し、貪欲に肉にして身体に蓄えていく。

私の場合は、それはやがて静かな自信となり、誰かの役に立ち、総合的に愉快な人生を生きるヒントではないかと思っている。(これは本筋とは離れるが、ちなみにどちらかというと私は人に必要とされたい)

ないたり笑ったりを含めて、興味深く事象を噛み砕けておもしろく味わえたならば。
それは、インテンシブコースで人生を深く学び、同じ単位、しかもプラマイゼロでも、より良い論文を後世に残せるのではないか。

いまはそう思うことで、まずはこの岐路の地面を丁寧にしらべて、石ころや草花などを観察しているところである。