2014年1月22日水曜日

人生は単位制か?

尊敬する先輩の一人が、いま人生の単位論に凝っている。

人間は全て決められた数の単位を取ることになっていて、それぞれみずからにまだ足りない単位を取得しながら人生を生きているというのがその人が語った説である。

たとえば、仕事では苦労したことなく高給とりである人が結婚生活がなかなか上手く行かないとか、

裕福に育ち不自由のない結婚をしたもの同士の間に難しい病をもつ子供が生まれたりすることが例にあげられるという。

多少例が偏りを見せているが、
つまり、人間万事塞翁が馬に似た考えで、人生に起こる事象はプラスとマイナスを補い合って、みな決められた単位を取得のち人生を卒業するというのだ。

さて、人生の帰路にたつと、色々なことを考える。その中に他の選択、選ばなかった道、諦めた道がある。誰かが進んでキラキラし始めた未来も良く目に入る。

悲しいかな、選択肢の全ては手に入らないし、自分には他の人となにか圧倒的に劣ったところがあるようにも見える。毎日これでよかったと嬉しくなったり、やっぱりだめだと悲しくなったりを繰り返して少し疲れる。

単位制とはすこし異なるかもしれないが、最近密かに、最後は人生に起こったことをおもしろがったもん勝ちだと思うようになった。ちなみにおもしろがるとは、面白おかしくやりすごすという意味では必ずしもない。もしかしたら古文のもののあはれ、とか、をかし、にちかいかも。

涙が自然に出るくらい嬉しいことも、信じられないことも、腹立たしいことも、身を切るように悲しいことも起きる。
それら一つ一つを丁寧に受け止めて咀嚼し、貪欲に肉にして身体に蓄えていく。

私の場合は、それはやがて静かな自信となり、誰かの役に立ち、総合的に愉快な人生を生きるヒントではないかと思っている。(これは本筋とは離れるが、ちなみにどちらかというと私は人に必要とされたい)

ないたり笑ったりを含めて、興味深く事象を噛み砕けておもしろく味わえたならば。
それは、インテンシブコースで人生を深く学び、同じ単位、しかもプラマイゼロでも、より良い論文を後世に残せるのではないか。

いまはそう思うことで、まずはこの岐路の地面を丁寧にしらべて、石ころや草花などを観察しているところである。

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